妙好人 安芸の浄念さん

◆油しぼりを生業に


浄念さんは、1766(明和2)年、広島市安佐北区狩留家町(高宮郡狩留家村)に生れました。父は孫七さんと言い、母も共にお念仏を喜ぶ無二の行者で、その両親の下で育った人でした。浄念さんの妻のお菊さんも念仏を喜ぶ人でしたが、57歳の頃、阿弥陀さまの浄土へ往生されました。


浄念さんは若いときは、源蔵と言っておりました。その頃から親に孝順でしたが、しかし非常に貧しく、油しぼりを生業とし、広島や隣の国の萩の城下あたりまでも出かけて行って働き、少しばかりの賃金をもらっては両親を養っておりました。

 

浄念さんは、生まれつき柔和であったと言われます。ですから、若いときからかりそめにも人の悪口を言うことはなく、もしまた人が他人の悪口を言うときはその返答はせず、ただ称名念仏するばかりで、悪口や悪いうわさ話の相手になることもなかったそうです。


そんな事から浄念さんに会う人は、自然に念仏を称えようと思う気持ちになったと言われ、またその事を伝え聞いた人までも、おのずからお聴聞を心がけるようになったと言われます。


◆牛にご法義話


浄念さんがまだ源蔵と言っているごろでした。家が本当に貧しいので、お金持ちの人が気をきかして、着物など作って贈ってやると二・三日も着たかと思うと、いつの間にやらそれを有縁のお寺ヘお花料に供え、またご本山へ上納するという事がたびたびでありました。


ある同行が、源蔵さんも牛といっしょに雇われれば、賃金も多くなるであろうと牛を買って与えてやると、それからは牛と共に仕事をするので、生活もよほど楽になってきたようです。ところがこの牛が病気になり、とうとう死んでしまいました。


そのとき源蔵さんは、「深い因縁があればこそ、長い間私の生活を助けてくれたのであろうから」と、せめて一夜なりとも介抱してやりたいと考え、牛小屋へ行きました。


介抱しながら、「まこと如来様の本願は、十方の衆生を救うとお誓いくだされているのだから、ご縁あれば牛にもお慈悲が聞こえるであろう」と、牛の頭を撫でながら一晩中ご法義話をしてやったという事です。


◆蛤を拾って


あるとき浄念さんが庭を掃除していると、蛤が一つ落ちていました。これは蛤売りが落して行ったものに違いないが、しかしこの一つをわざわざ遠い海まで逃がしに行く事もできず、「この蛤も如来様のご本願は漏らされないのであろうから、そこをよく心得てお前も浄土に往生してくれよ」と懇ろに言い聞かせ、お仏壇の中へ入れておきました。


ところがあるとき、息子がお仏壇にお参りをすると、蛤が置いてあるではありませんか。よく見れば、先日少し痛いところがあって膏薬を求めたときの貝殻でした。


これは一つのお笑いぐさですが、ご法義の上から生類を哀れむ事の如何に深いものであったかを感じさせる話で、ともに見習いたい事です。


◆お経さんには何が書いてある?


浄念さんはかつてある和上様から、「法座に参詣して、お経の初めの鐘を聞くことが出来なかったら、3年も不作をしたと思え」とのご教化を受けた事がありました。


しかし、お経のご文はなかなか解るものではありません。そこで浄念さんはいつも「お経はただ、この浄念を必ずお浄土に参らせてくださるとのいわれがといてあると思えば、有難い事であります」と言っていたそうです。


◆このままながらのお救い


また浄念さんは、京都のご本山へ15回もお参りしましたが、京都の名所・旧跡は少しも知らず、ご本山と大谷本廟の他は、どこへも参らなかったそうです。


あるとき、勧学恵海和上が広島の西応寺に講演に来られ逗留された事がありました。その時、浄念さんに向かって、「お領解はどうか」と尋ねられると、「私は浄念と申しまして、愚かな凡夫、恐ろしい地獄行きの者です。それをこのままながら、お救いくださるのだと、決定領解できたことは、如何なるお慈悲の離れ業でありましょうか。これを思うと、どうもこうもなくて、有り難うございますと、申さずには居れません」と言われました。


その涙にむせびながら喜ぶさまを見られた恵海和上も、深く感動され、ともに袖をしぼられたそうです。


◆ご往生


やがて浄念さんは、年をとって病気にかかり、1年ばかり足腰が立だなくなり、ゆえあって西応寺に長々とお世話になりました。ですから看病も思うようにはしてもらえず、さぞ不自由なことでしたでしょうが、一言半句も不足らしいことは言わず、ただ仏恩の広大なことを喜ばれるだけでした。


そして84歳のとき、めでたく浄土に往生されました。時に1849(嘉永2)年7月29日でした。